※順不同・敬称略
- アユニ・D
- ゆうたろう
- カナイフユキ
- 中島セナ
- ワカヤマリダヲ
- 山内マリコ
- 竹田ダニエル
- 奥田亜紀子
- カネコアツシ
- 絶対に終電を逃さない女
- 志村貴子
- 澤部渡
- 能町みね子
- 早川モトヒロ
- 少年アヤ
- 王谷晶
- 冬野梅子
- 年森瑛
- 竹中万季
- 玉置周啓
- 高橋翔
イーニドとレベッカの、正反対なんだけど互いを求め合ってる距離感がとにかく愛おしく、物語に登場する90年代の衣装、ヘアメイク小物がとにかく可愛くて。この作品に関わる全てを羨みながら没入していました。
多感な時期を生きる素直になれない少年少女が絶妙に描かれてる思いきや、物語を締めくくるラストシーンでは色んな意味で裏切られる、この映画の凄みを最後の最後まで痛感させられました。
世の中を素直に捉えず、諦観することも出来ない女の子たち。が、原因は周りではないということを徐々に自覚していく。世間に罷り通る正しさに疑問を持つ。疎外感の中、イーニドは自分を認識するための岐路にいるのではないだろうか。風の吹かない日常を皮肉を交えておしゃれでポップに描いている。どこか滑稽な2人を観ていたつもりが、自分が滑稽だったのではないかと思えてくる作品だ。
『ゴーストワールド』のことを思い出すと胃が痛くなる。映画が公開されたとき、わたしは二十歳だった。スクリーンの中にまさに自分たちみたいな子が映っていることに、うれしさを感じると同時に、親友と二人、多分ちょっとがっかりしていた。なーんだ、わたしたち以外にもいたのかって。
ただの「可愛いティーン映画」だと思ったら、大間違い!「大人の女性」として扱われたいけど、つまらない「大人」には絶対なりたくない。そんな少女の葛藤と閉塞感を、「大人」になった我々は今、どう受け止める?初公開から22年たった今、社会はどう変われただろうか?
原作コミックは大名作ですが、そのエッセンスを余さずディープかつカラフルに翻案した本作もまた「映画」として大傑作!最高に幸せな映画化のかたちだと思います。
10代の頃の日の当たらない鬱屈とした毎日に、光を当ててくれた。イーニドにとってシーモアがヒーローだったように、この映画こそが、すべてのはみ出し者たちにとってのヒーローになる。
若かった頃、『ゴーストワールド』を「お洒落な映画なんでしょ」ぐらいに思い、素通りしたのを反省しています。 でも今観ることができてよかった。映画の中のあらゆるビターな状況が今の私に重なり、いびつできれいななにかになりました。
北関東のクソ田舎で育った私は映画館なんか近くになくて、まともに映画館で映画を観たことがなかった。22歳まで。マジで、22歳まで映画を知らなかったと言っていい。22歳、映画くらい観たほうがいいんじゃないかと思って、雑誌「CUT」を買って、自分が興味を持てそうな映画を選んで、恵比寿ガーデンシネマに人生で初めて1人で映画を観に行った、それがゴーストワールドなのだ。すごくないか。この選択肢はすごくないか?運命づけられてないか?今でも、こうして運命づけられる人がいるはず。いま大人になって見て思う、イーニドとレベッカのダサい顔!周りをダサいとこき下ろす本人だってしっかりダサくてそこが愛おしすぎる、顔見るだけで泣ける顔。今のポリコレからしてキツいところもわずかにあるけどそこはちょっと置いとく。みんなイーニドなんだろ?我々みたいなクソ女子のバイブル、自分がいちばん若いときに観ろ、つまりいま観ろ!
モラトリアムの痛みは、ずっとここにはいられない、という痛みである。イーニドがあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、余計なことをしたり、しなかったりする様子を描きながら、本作はどうしようもなく、険しいほどに順行していく時の流れそのものを炙りだしているのではないか。
あの頃、「自分はイーニドですらない」と思いながらも泣かされたダサくてイモい元・若者たちよ。中年になってから観る『ゴーストワールド』、強烈に沁みます。
普遍性があること、多くの人の胸を打つということはすなわち凡庸さを意味するのではないと、本作は証明している。
燻った気持ちを抱えた学生時代、私の映画だ!と思った。二人のファッションを一つひとつノートに描いてたことも思い出す。世界に対する居心地の悪さの理由は個人的なものとは限らないことに気づいた今、昔は気に留めてなかったシーンに目がいく。「今は差別を隠すのが上手くなった」という言葉。2023年の今はどうだろう?
イーニドはカラオケに行った方がいい。絶叫しながら踊って、嫌なこと全部忘れて、世の中マトモじゃないやつばっかだってこと受け入れよう。俺ハモるよ。でもこういうカウンセラー気取りが一番鬱陶しいのか。じゃあいいよ、人生における選択をミスりまくるがよい。浮かない顔で街を出て、浮かない顔で帰ってくればよいわ。そうした痛みを伴う往復の先にしか自分の居場所がないってこと、レベッカもいつか分かってくれるさ。
心から愛して止まない作品ほど他人に教えたくなくて『ゴーストワールド』もその中のひとつ。
映画を通じて根底にずーっと漂ってるさみしさの正体はなんなんだろう。
大人になってもまださみしさはあるからこそ、あのラストシーンともう一度向き合ってみたい。
もうこの映画と再会することはないと思っていたので、また出会えるなんてとても幸せです。
封切当時は社会人1年目、私たちの映画だ!とイーニドとレベッカに夢中になりました。
今回の再上映にあたり20余年ぶりにスクリーンで観て、映画を再見するというよりは、登場人物たちと再会したような気持ちに。
シーモアの良さが増幅したのは、きっと自分が少し変わったから。
忘れられないラストシーン。映画館に、会いに来てください。
この世界はいつだって『ゴーストワールド』だから、イーニドとレベッカは私たちそのもので、そこに存在する人やモノ、音楽すべてが最高としか言いようがないのです。
「大丈夫じゃなくても大丈夫」と言ってくれる映画は多いけど、『ゴーストワールド』はちゃんと「大丈夫じゃないことの大丈夫じゃなさ」を語り寄り添ってくれる。私たちいまもまだぜんぜん大丈夫じゃない。
周りと馴染むことがそんなに難しくなかった私にとって、馴染めなくて〈自分〉でしかいられないイーニドはサイコーにカッコいい。でも、周りに合わせることに慣れすぎて「〈自分〉って何だ?」ってなった時こそ、イーニドに会いたくなる。本当はみんな〈自分〉でしかいられないのだから。
ゴーストワールドから逃げたのか、向かったのか。 観終わったあとはそんなことを考えるけど、単純に2人の服装を見るだけでも楽しいのが今作。 それにしても、こういうコメントを書くには 「何よりもユーモアのセンス」が必要だけどやっぱり難しいな。
変わりたくないと思うことは、既に変化だと誰かが言ってた。 ヘンテコな奴らも、なんやかんや社会に擬態して、それなりに生きている。 2001年のスティーブ・ブシェミは2023年の僕も救ってくれる、傑作。
一線を越えまくるイーニドが最高です。 観終えた後には、イーニドが自分の中の何かを持って行ってしまったような、持って行ってくれたような、不思議な心地でした。
忘れられない1本になりました。
センス抜群のお洒落な世界で生きる、痛々しい若者達のほろ苦い青春ムービー。「私はお前らとは違うから」という、イーニドの斜め上から目線の皮肉っぽさと不器用さが、なんだかとても愛おしいです。
イーニドは私です(でした)。
今でも時々誰にも告げずにあのバスに乗りたいという気持ちになります。
「まっすぐにナードであること」を肯定してくれるようなシーモアに、かつてのわたしはイーニドと同じようにシンパシーを感じたし、かっこいいと思ったし、救われました。そして、永遠だと思っていたものが変わりつつあり、変わらないものは(ほとんど)ないと打ちのめされたときの記憶とともにいまでもずっとイーニドとレベッカはわたしの心のなかにいます。
街にはびこる偽物を笑って、本物は必ず手に入れる。審美眼に年齢は関係ない。時代がどんなに変わろうとイーニドみたいな子は必ずいる。若者を信じての再映だなと思います。 「大丈夫、バカほど男女関係が得意なのよ」という台詞は割と心の支えになってます。
なんといっても最後のバスに乗っていくシーン! 社会に迎合する選択よりも自分の信じた道をいく。ちょっと胸は痛くなるけれど。 普遍的で、背中を押してくれる物語は実に映画的。 だからぼくも音楽をやってきたし、映画館を営んでるんだと再確認できました。 今のティーンに観てほしい!今も、大切なものを持ち続けていますか?
はみ出し者とは:風変わりで周囲に容易に溶け込めない人。 それでいい。 それがいい。 誰だって思春期は旅路を彷徨っている。 寿命が来るまで人間見習い中でいい。
私はこの作品に未来への希望を抱いている。 最高にプリティーでキュートなふたりが大好きだ。