※順不同・敬称略
- 雪下まゆ
- ゆうたろう
- ブレイディみかこ
- 長島有里枝
- 楠本まき
- 小原ブラス
- イシヅカユウ
- 少年アヤ
- 売野機子
- 小谷実由
- 小林祐介
- 大澤実音穂
- haru.
- 池辺葵
- 今日マチ子
- 小林啓一
- 小田香
- やまじえびね
- 遠藤まめた
- 草野絵美
- ゆっきゅん
- 長田杏奈
- 多田由美
- 合田文
- 福岡南央子
- 相川千尋
我慢してきた感情が、ひとつの言葉によって溢れる涙に変わる少女を見て、抱き締めたくなりました。過去の固定概念で押し潰される未来達がこれ以上増えない様、色々な当たり前が認められる世になればいいなと思います。
「現実は小説よりも奇なり」というが、この映画を見て思った。ドキュメンタリーはフィクションより美しい。これは子どもに自分自身でいさせようとした親の闘いの記録だ。戸惑いながら自分にかけられた呪いを解く人だけが、周囲の呪いを解くことができる。
サシャと家族は互いに支えあい、守りあっている。彼らがごく「普通」の人々であることは、彼らと似た境遇の人を励ますだろう。わたしの家族も、自分が誰なのかはその人自身が決めていいと考える「普通」の人たちだった。ありのままの誰かを理解し受け入れるために、ありのままの自分も認めて好きになろう。ちっとも難しいことなんかじゃないと、わたしは思いたい。
サシャが青い服を全部処分することにした時、「女の子も青い服を着るけど」と言ったサシャの母カリーヌ。彼女は痛いほど考えている。学校やバレエ教室との闘いに加え、未来を左右するだろうホルモン治療の決断までサシャのかわりにしなければならない。そのプレッシャーはどれほどだろう。彼女達がこれ以上よけいな消耗をせずにすむように。やさしい世界になるように。世界のひとりである私達の考えるてがかりをリフシッツ監督はそっと差し出している。
何でこんなシンプルなことのために、ここまで戦わねばならないんだ。「寛容な社会」「多様性の社会」そんな言葉が流行っているが、寛容とは何か、この映画はエグる。なぜ、自分が自分であることを誰かに説明しなければならないんだ。何も反省することがないのに自分を変えなければならないのか。こんな重荷を子供に抱えさせてしまっていいのだろうか。未来の子供達にはこの苦しみを微塵も感じさせたくない。
母と学校や診療内科に行って話し合った日々を、この『リトル・ガール』を観て昨日のことのように思い出しました。あの頃、毎日溺れそうになりながら必死で泳いで今があります。この映画に寄り添うドビュッシーの音楽のように、この映画が心の性の違和に悩む人達に寄り添ってくれたら、と思います。
変革の使命を背負うのは、ちいさな彼女でも、その家族でもない。もはや誰ひとりとして自由ではいられない社会を、のうのうと生きる私です。私たちです。
私たちは、どうして無意識のうちに娘の髪を直すんだろうね。パパとママの手が、事あるごとに脈略もなくサシャの頭に伸びる。慰めたいとか、優しくしたいとか、そういうことじゃなくて、私たちはただ娘の乱れた髪を整えるためにそれをしてる。いつか触れることを躊躇う日が来たなら、それが本当に蝶になって私たちの元から飛び立ってしまう日なのかもしれないと思った。
わずか7歳の小さな少女が、葛藤しながらも懸命に立ち向かう姿。そして彼女が彼女らしく自由に生きることを望み、出来る限り同じ目線に立ち、守ろうとする家族や周りの人々の温かさに希望を感じる。ラストシーンのサシャのはにかんだ笑顔がとても大人に見える。これからの彼女の心の平穏を願い、私には何が出来るのだろうと考えた。
今年小学生になった僕の娘は、毎朝自分の着たい服を選び、学校へ行く。好きな色の手提げ袋に、好きなキャラクターの水筒を入れ、好きな色の靴を履き、好きな色のヘアゴムで長い髪を束ね、学校へいく。彼女が選んだものを、誰かにとやかく言われることはない。“誰かにとやかく言われない”ものを徹底して選んでいるわけではなく、ただ自分の好きなものを、好きなように、身の回りに置いているだけ。彼女が、彼女自身としてただ存在しているだけ。誰のためでもなく、自分のために。そして、それが受け入れられる環境で、彼女は暮らしている。これは、幸運なことだろうか。それとも、普通のことだろうか。
もうすぐ七歳になる僕の娘の境遇を、そしてサシャの境遇を、“運”で片付けてはいけないし、“普通”で済ませてはいけない。彼女たちが、これまでもこれからも、心のままに生きていいということ。そして、心のままに生きる彼女たちが笑顔でいる環境を、育むこと、勝ち取ること。『リトル・ガール』はいま僕たちが住んでいる街の物語、僕たちの家族の物語です。どんな時も君の味方でいるよ、何があろうと君の味方でいるよ。
特別な何かを求めているわけじゃない、ただ彼女らしくありのままを生きていたいだけ。そんなサシャがどうしようもなく愛おしい。
ただ、サシャが彼女自身でいようとすることを拒む大人たち。できる限りサシャの視線から撮ることを意識したというカメラワークは、彼女を幾度となく引き裂く学校の対応や言葉のもつ暴力性をありありと映し出す。サシャの小さな身体のなかで起きている爆発や震えが波動となって鑑賞者の私たちをも揺さぶるとき、これは紛れもなく私とあなたの物語でもあることに気がつくのです。
そっと でも触れないように慎重にうつしだされていくサシャの自我、忍耐、美意識…家族や制作者たちのまなざしがあたたかくてずっと日だまりを見ているようだった。
少女であるために、闘わなくてはならない。すべての人に、それぞれの普通があること。「当たり前の世界」はまだ遠い。でも、必ずたどり着けることもこの家族は教えてくれる。
観ている間、ずっと涙が止まりませんでした。悪いものが全部でたというか、ものすごくあたたかいものに触れたというか。現代人が忘れがちなものを彼女達は大切にしていて、それを他者に押し付けるわけでもない。ただただ人としての在り方に感銘を受けました。きっと、今一番大事にすべきものがみつかるはずです。
もうすこし大人になれば、ちょっとは楽になるのかな。制服、トイレ、更衣室、履歴書、性別で区分けされたこの世界。親を悲しませたいわけじゃない。友だちを戸惑わせたいわけじゃない。サシャの瞳の奥に感情がうずまく。知ってるよ、その気持ち。懐かしいがまだ生きている痛みを思い出しながら、「ただ私でありたい」子どもたちや、親御さんたちに、サシャの姿が届くことを願った。
サシャの家族それぞれの語る言葉が胸を打つ。少しずつ差してくる光を見せてくれるこの映画は、貴重な家族の愛の記録だ。
性的少数者と聞くと大人の姿をイメージしやすいけれど、実際には言葉を覚えたばかりの子どもが、自分の性別について悩むこともある。「こんなに小さい子どもが?」「大人が誘導しているんじゃないの?」日本でもそう考える人がいる。そんな人には、ぜひこの映画をみてほしい。
たとえ、まだ未熟でも、子どももひとりの人間で、独立した存在であることを忘れてはいけない。私も二児の親として、息子たちを"変えよう"としてはならないと改めて思った。サシャのような子が涙を流さなくてもすむような社会にしていきたい。
幼くして聡明で優しいサシャは、初めから自分が何者であるか知っていたし、間違っているのは不寛容な社会の側であるとわかっていた。それでも、これからもきっと何度もふがいない涙を流すことになる。ただ自分自身としてあり続けることに怯えなくていい、あのラストシーンのような、そんな世界に少しずつなりますように。人生のセンシティブな一場面がこうして届けられたからには、早急に。
言葉少なで感情表現が控えめなサシャの瞳に、じわじわ溜まってやっとこぼれ落ちる涙。この涙に、大人や社会はどう応えるか。気にかけて耳を澄まさねば聞こえてこない小さな声を、かき消し踏みつけてはならない。
サシャとサシャのママはまるで親友のよう。共に戦い共に涙する。サシャの他の家族もまた結束が強く、父母に似てみな毅然としている。「普通」を振りかざして、幼い子どもが居心地のいい場所を求めてスカートをはくことを断罪する人たちがいる。サシャは声に出さずに戦い続ける。緊張が解けた瞬間の、はらはらと落ちるサシャの涙が胸を締め付ける。
どこでも堂々と自分のジェンダー・アイデンティティを示すことができるというのは、決して当たり前ではない。少女の傷ついた心が滲み出る悲しい微笑、母たちに心配をかけまいと紡がれる言葉が物語ります。独りで闘いに勝つことはできないかもしれない。「何をしても変わらない」と諦めたくなるかもしれない。でも、家族がいたら。友達がいたら。理解者がいたら。教育機関が変わったら。私たちはどの立場をとるべきなのか、考えさせられる作品です。
差別する側の不可視。ちいさなひとの尊厳。子どもを映像に記録し広めることの責任。映画の持つ、変化を生じる力…。この映画が突きつけるものは何層にもなって、簡単に消化できず、もっと考えろ、学べ、闘えと自分に言うとき、光に縁取られたサシャの横顔がいつも浮かぶ。
思わずこぼれるサシャの涙は、「トランスジェンダー」「性自認」「性別違和」といった言葉の向こうに、生きて、泣き、笑う、ひとりひとりの人間がいることを思い出させてくれる。映画に出演したサシャと家族の勇気。受け止めた痛みを、社会を変える力にしなくてはいけない。
カウンセリングのシーンでまだ幼いサシャが母親のことを気遣いながら涙を流すシーンには心が痛んだ。
世の中のことをまだ知り始めたばかりの子供が、なぜこのような思いをしなければならないのか、私たちは改めて考える必要がある。